仕事も、家族も、人生も。全部ひっくるめて、毎日。
朝4時に青森の講座に登壇する日もあれば、娘のバレエの送迎で一日が終わる日もあります。日本の会社を経営しながら、オランダで暮らしています。仕事のこと、子育てのこと、お金のこと、社会のこと。ときには、どうでもいいことも。毎日の出来事と、そのとき考えたことを、そのままメールでお届けしています。
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私は、目の前のことを少しずつ進めているうちに、気づいたらここにいました。
いまはオランダに住んで、会社をやって、娘が二人いて。やってみたら、それぞれに次の悩みがちゃんと待っていました。
このメルマガには、その毎日をそのまま書いています。うまくいった日も、びしょ濡れで帰った日も。


実際にお送りしたメールから、4本。
本日私が住んでいるZwolleは雨です。 オランダの気候として 秋冬は寒い上に雨が多いので これからどんどん雨の日が増えていくわけですが。 実は私は、雨に濡れるのがそんなに嫌ではありません。 長時間雨に打たれ続けたら 寒いから嫌だなぁと思いますが 例えばほんの10分、15分の時間なら 家に帰ってタオルで拭けばいいや、 って思っちゃいます。 だから家を出る前の天気予報チェックも 甘いです。 先ほども、見事にびしょ濡れになって 帰宅しました。笑
うちの夫は雨に濡れることを 本当に嫌がります。 どうやらあの雨に濡れる感触自体が 嫌いらしいです。 だから家を出る前の天気予報チェックが 細かいです。 晴れとか雨とかの天気予報だけでなく 雨雲レーダーまで見ています。 「12:10ぐらいに一瞬雨が降るけど 12:35には止みそうだよ」 などとよく言っています。 だからといって夫は、 何でもかんでも事前に緻密に調べて行動するという タイプではありません。 オランダ移住前のリサーチは ほぼすべて私がやりましたし 移住前の準備や段取りはお金周りも含めて私がやりました。 なのに、雨についてだけはものすごく調べていて よっぽど嫌なんだと思います。笑 一方の私は、雨に濡れることそのものは そこまで嫌ではありません。 なのですが。 今日びしょ濡れになって歩いているとき、ふと 「恥ずかしいな」と思ったんですよね。 雨に濡れていることが嫌なわけではないのに、 濡れた自分を他の人に見られるのは なんだか恥ずかしい。 そこで、なんで私はこれを 恥ずかしいと感じるんだろう? と思いました。 考えてみると、たぶん「濡れていること」自体が 恥ずかしいわけではないんですよね。 海やプールでびしょ濡れでも 別に恥ずかしくないですし、 雨の中で遊ぶイベントで みんながびしょ濡れだったら きっと何とも思わないです。 でも街中で、周りの人は普通に歩いているのに 自分だけ髪も服もびしょびしょ。 そうなると急に恥ずかしくなります。 たぶんこれは、 「自分が想定していた状態ではない自分を 人に見られている」 という感覚なのかなと思いました。 普段だったら、 ある程度髪を整えて、服も普通の状態で、 それなりに「人前に出る自分」を作っています。 でも突然の雨に降られると、 それが一気に崩れ、 自分ではどうにもできない。 その「コントロールできていない自分」を 人に見られることが 恥ずかしいのかもしれません。 そう考えると、 恥ずかしいという感情って 面白いなと思います。 同じ状態でも、 場所や周りの人によって 全然感じ方が違いますよね。 「濡れている」という事実は同じなのに、 プールなら平気で、街中なら恥ずかしいのです。 つまり私たちは、その状態そのものよりも 「周りからどう見えるか」とか、 「本来こうあるはずの自分と 今の自分がどれだけズレているか」 みたいなことで 恥ずかしさを感じているのかもしれません。 そしてこれ、 雨に限った話でもない気がします。 仕事でうまく話せなかったとき、 知らないことを知らないと言えなかったとき、 準備不足の状態を人に見られたとき、 思ったようにできなかった自分を 誰かに見られたときなど。 そこで感じているのも、 「失敗した」ということそのものより、 「こんな自分を見られてしまった」 という恥ずかしさだったりするのかもしれません。 だとしたら、人は、 失敗そのものよりも 「失敗した自分をどう見られるか」 を怖がっているのかもしれないなぁ、と。 今日、びしょ濡れになりながら そんなことを考えていました。 ちなみに次に雨が降るとき、 雨雲レーダーを見るようになるかというと・・・ たぶん見ません! ではまた明日! ミカ
私が経営している日本法人では、 採用のときに履歴書の提出を求めません。 出したい人にだけ出してもらっています。 面接を何回かして、 「トライアル」と呼んでいる試用期間で実際に仕事をしてもらい そこで成果が出るかどうか、 コミュニケーションに難がないかどうか、 ほぼそれだけで決めています。 だから、スタッフの学歴を知らないこともあるし、 前にどこで働いていたのか、 全く知らないということもよくあります。 これは理念というよりは、 私がそうされたかったから、なんだと思います。
第一子を産んだ13年前、 私はそれまでのようには働けなくなりました。 時間の制約は実際にあったし、 産後の脳と体は思うように動かないし、 以前と同じ動き方ができなかったのも事実です。 でもそれとは別に、 「子どもがいる人」というだけで 仕事の選択肢がばさっと減る感覚は、 紛れもないものとしてありました。 その後、業務委託で働いていたときには、 稼働時間は私のほうがずっと多いのに、 報酬は他の人より圧倒的に低い、 ということがありました。 理由は「キャリアがないから」。 市場で評価されるキャリアがないからです。 そのとき気づきました。 世の中でいうキャリアって 今何ができるかじゃないんだな、と。 どこにいたか。 どんな肩書きだったか。 何年やったか。 過去が、今の値段を決めているんです。 それが悪いとは思いません。 判断する側にとっては合理的なやり方です。 でも、それだと拾えない人がいます。 私はその「拾えない側」にいたことがあるので、 自分の会社では、 過去ではなく今とこれからで 人を見ることにしました。 「過去のラベルで測らなくても、 会社はちゃんと回る」 という証明がしたくて もう何年も実験をしています。 今のところ、いい感じで回っています。 ここまでは、きれいな話です。 でも実はその裏側で かなり生々しいドロドロとした日々を 生きてきたという側面もあります。 「人をラベルで測らない世界」を 多くの人に伝え実現するためには 売上が必要だし、 知名度もいる。 肩書きや賞や役割があったほうがいい。 ずっとそう思ってきました。 「ラベルで人を測らなくていい」と言いたいのに、 自分はラベルを取りにいく。 これは矛盾しているかもしれない、 そう思うこともありました。 でも最近、こう考えるようになりました。 世の中は、過去で人を測ります。 その世の中に「別の測り方がある」と伝えたいなら、 世の中が読める言葉で伝える必要があります。 実績や数字は、 私や会社の価値を証明するものではなくて、 伝えたいことを遠くまで届けるための翻訳。 そう考えれば、矛盾ではなくなります。 ただ、気をつけていることがあります。 翻訳のために取りにいった数字を、 いつのまにか自分を測るものさしにしないこと。 手段を目的にしない、ということですね。 これが難しいんだなぁ。 もう何ヶ月も前になりますが 「あなたの会社の実績では難しいでしょう」 という趣旨のことを言われました。 言った本人に悪気はなかったと思いますし、 世の中のものさしで見れば、その通りです。 でも私は、その一言が 何ヶ月も頭から離れませんでした。 怒りでもないし、傷ついたというほどでもないけど ずっとモヤモヤしていて なぜあんなに引っかかったのか 何度も思い出して考えていました。 たぶん、その言葉が 私の中にもある声だったから モヤモヤしたんです。 他人には「過去で測らない」と言いながら、 自分自身にはずっと 「数字も実績もまだまだ」と言い続けてきました。 外から同じことを言われて、 それに気づきました。 だから、これは自分への課題です。 他の人を見るのと同じ目で、 自分のことも見ること。 この人にはどんな可能性があるか?という目で 人を見るのと同じように、 私にはどんな可能性があるのか?と 常に自分自身の今と未来を見ること。 私にとっての一流は、 数字や肩書きを持っている人ではなくて、 どんなものさしを当てられても 堂々としていられる、 自分の確固たる世界を持っている人です。 私はまだそこには届いていません。 でも、届く前提で、今日も仕事をしています。 ではまた明日! ミカ
活躍している人を見ると その人には一本のテーマがあって、 専門性があって、 強く言いたいことがある。 私はそれが弱い気がしていて、 前からずっと引っかかっていました。 「私には、こういう強い主張がないな」と。 悲観しているわけじゃないんです。 でも先日ふと思ったんです。 もしかして私、 一生懸命生きていないから テーマができないのかな、と。
そんなことを考えていたときに、 ハーシュマンという経済学者の 枠組みに出会いました。 組織や状況に不満があるとき、 人のとる道は大きく2つある。 Voice:声を上げて変える。 Exit:そこを離れる。 じゃあ私はどっちだろう、と考えて わりとすぐ答えが出ました。 私、Exitの人だ。 思い返すと、ずっとそうでした。 東京の会社員を続けなかった。 八戸に戻って、 仕事がないなら仕事を作った。 日本の仕組みが合わないと思ったら、 オランダに来た。 何かに遭遇したときの私の反射は 「これはおかしい、変えなければ」ではなくて 「ここじゃない場所、ないかな」なんです。 嫌なことがあったら、距離を取る。 変えようとはしない。 これ、書きながら思うんですけど、 Exitの人って 主張がないように見えるんですよね。 だって、言う前にやっちゃってるから。 戦う人は叫ぶから目立つけど、 離れて別の場所を作った人には 作ったものしか残らない。 本人も「まあ、こうなるよね」と 思っているので、わざわざ語らない。 なので「私には主張がない」の正体は、 たぶん 「主張を口じゃなく、手でやってきた」 ということなんだと思います。 そう言われると、 ちょっと救われる気もします。 ただですね。 ここで話が終わればきれいなんですが、 正直に言うと、私はやっぱり Voiceを持っている人が かっこいいと思っているんです。 憧れています。 でも、心の奥底から 湧いてくるものがまだない。 作ろうと思えば それっぽい言葉は書けます。 でも湧いてきていないものを 何年も言い続けるのは たぶん無理で、途中でバレる。 Exitの人として十何年やってきて、 それはそれで悪くなかったと思っていて、 でも今、Voiceが欲しくなっている。 そんな状態です。 あなたは、VoiceとExit、 どっち寄りだと思いますか? よかったら返信で教えてください^^ ではまた明日! ミカ
先週Rotterdamで、 ムール貝を鍋いっぱい食べてきました。 今日は短めに、ムール貝の豆知識を。 ムール貝といえばベルギー、 というイメージがあると思います。 フライドポテトと一緒に食べる 「ムール・フリット」はベルギーの国民食で、 7月21日の建国記念日に食べる定番料理です。 ところが、そのベルギー人が食べているムール貝、 約9割がオランダ産です。
産地はオランダ南西部のZeeland州。 Yersekeという小さな村が中心地で、 ムール貝のおかげで栄えたことから 「Zeelandのクロンダイク」 (ゴールドラッシュの町)と呼ばれ、 ムール貝そのものは「黒い金」と呼ばれています。 ベルギーには養殖の伝統がほとんどなく、 19世紀の終わりから 運河を通ってZeelandのムール貝が ベルギーに運ばれるようになったそうです。 つまり、 「オランダで育てて、ベルギーで食べる」 という関係が、150年近く続いているわけです。 旬は7月から翌年の4月まで。 季節の始まりには、Yersekeで 「ムール貝の日」というお祭りもあります。 オランダでの食べ方は、 白ワインと玉ねぎ、セロリで蒸して、 フライドポテトとソースをつけて食べる。 ベルギーとほぼ同じです。 ただ、オランダ人は自国で作っているわりに ベルギー人ほどは食べていない気がします。笑 Rotterdamで食べたムール貝は Zeelandから近いこともあって、とても新鮮でした。 オランダに来たら、 ベルギーまで行かなくてもムール貝は食べられます。 ちなみに今はちょうど旬の真っ最中。 冬のオランダ、ムール貝も一緒に待っています。 ではまた明日! ミカ






決着がついていない話ばかりです。続きは、メールで。
オランダの学校は、ある日突然、勉強が大変になります。中学生になった長女と一緒に、その仕組みに戸惑っている最中です。
AIが台頭する中で、オンライン秘書の会社はどうなっていくのか。経営者として、今まさに舵を切っているところです。
母語を教えるのは初めて。文法が自分にとっては自然すぎて、説明できないことだらけだと気づき、勉強中です。
繊細な感性と、親近感のある語り口が大好きで、毎日楽しみにしています
奮闘する日々を率直に書いてくれるので楽しく読めるし、私も頑張ろうって思います
オランダでの生活を想像できて夢が広がります
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